ルイス ウェイン。 ルイス・ウェインの生涯

ルイス・ウェイン

ルイス ウェイン

ロンドンもやっと、ついに、だいぶ暖かくなってきた、と思ったら真夏日、そしてまたクールダウン。 相変わらず気が抜けない気候ですが、まあ徐々に気温は上がってますかねー。 猫たちも衣替えの様子で、このところいつもに増して抜け毛が多く(いやほんとハンパなくて、日々猫の毛の掃除に追われています)、しかも最近どっちかが毎日のようにヘアボールを吐いてるんですけど(吐く瞬間に居合わせると、あの「ウォッ、ウォッ、ウォッ、ウォッ」っていう、ゼンマイ仕掛けの蠕動運動のような独特の身振りに釘付けになってしまう)、これはやっぱり衣替えに伴う脱毛量の増加による影響とみてよいのでしょうか……。 さて今回は、またまた英国の猫アーティストについて。 といっても現在活動しているアーティストではなくて、19世紀後半から20世紀前半に名を馳せた人物です。 その人の名は、ルイス・ウェイン。 日本でも伝記が出版されているし、夏目漱石にインスピレーションを与えた(『吾輩は猫である』の中にルイス・ウェインの絵と思しき絵葉書についての記述があるという話。 そういえば二人は見た目もどこか似ているような……!? )とも言われているので、猫好きならご存知の方も多いかもしれません。 ルイス・ウェインは擬人化された猫の絵でよく知られていますが、どの絵も「かわいい」だけでは済まされない、奇妙な趣を持っているのが特徴です。 例えば『不思議の国のアリス』のチェシャ猫さながら、ニカーッと笑っている猫が作品の中によく登場しますが、この笑い顔が、かわいいというより怖い。 大きくクワッと開いた口はひきつっているし、目は笑っていない。 どこか楳図かずお先生とか、ホラー漫画を彷彿とさせるものがあります。 だいたいにおいて猫は犬と違って大口を開けて笑わないので、まず「猫が笑っている」という設定が奇妙なうえに、複数の猫が一斉にひきつった笑顔を浮かべているというのもインパクトが大きい理由かもしれません。 笑っているのか怒っているのかよくわからない表情。 ある意味とても猫っぽい。 A ルイス・ウェインは1860年8月5日にロンドンのクラーケンウェルで生まれました。 父親は生地商人で、フランス人の母親はカーペットや教会で使われるファブリックなどを手がけるフリーランスのテキスタイル・デザイナー。 ルイスは長男で、4人の妹がいました。 子供の頃は虚弱体質で、ひとり冒険小説などを読み漁って空想に耽る日々だったらしく、10歳になるまで学校にも行けなかったそうです。 イーストロンドンのハックニーにある基礎学校に通い始めてからも、よく授業をさぼってミュージアムやテムズ・ドック周辺をうろうろしたりしていたんだとか。 中学校に入ってからも自分の世界にこもっているような生徒だったようで、学校の友達から「ちょっと変わったアウトサイダー」と見られていたようです。 実のところルイスはこの頃からすでに自身の将来を見据えていたようで、のちにインタビューで、当時自分が音楽家(オペラの作曲に興味があったとか)、画家、著述家など「なんらかのアーティストになることを夢見ていた」と語っています。 その後、ウェスト・ロンドン・スクール・オブ・アートに通い、修学後は同校で補助教員として働くことになります。 しかしその年に父親が亡くなったことで、ルイスは一家を養う大黒柱として家族を支えていかなくてはならなくなりました。 そこで、教師としての仕事だけでは事足りず、フリーランスの挿絵画家としても働くようになります。 自ら作品を雑誌や絵入り新聞などに売り込んで動物画や風景画の挿絵を手がけるようになり、その才能が認められて1882年には「Illustrated Sporting and Dramatic News」誌のスタッフのポジションを獲得するまでになります。 またその頃、ルイスは、ウェイン家で家庭教師をしていたエミリーと恋に落ちます。 しかし彼女はルイスよりも10歳年上。 当時は世間的に受け入れ難い事実だったようで、家族の猛反対を受けるのですが、それを押し切って1884年1月に二人は結婚します。 ハムステッドの教会で挙げた結婚式には、どちらの家族もまったく出席しなかったそうです。 二人はそのままハムステッドに居を構え、のちにルイスの絵の定番モデルとなり、彼のキャリアに転機をもたらすことになるブラック&ホワイトの子猫、ピーターを家族の一員として迎え入れたのでした。 しかし悲劇的なことに、結婚後まもなくしてエミリーが乳がんを患っていることが発覚。 病床に伏せていたエミリーにとって、飼い猫のピーターは心の安らぎとなります。 ルイスもたびたびエミリーのベッド脇に腰掛けては、ピーターの絵を描いていました。 エミリーは、ピーターの絵を編集者に見せるようルイスにしきりに勧めていましたが、この頃ルイスが描いていたのは、犬、うさぎ、魚、鳥などの動物で、猫を描くことは考えていませんでした。 ところがしばらくして「Illustrated London News」にピーターをモデルにしたルイスの絵が掲載され、これをきっかけにいよいよ猫画家ルイス・ウェインの名が世に知られるようになります。 動物をテーマにしたストーリー性のあるイラストのはしりと言える画期的な作品で、大きなセンセーションを巻き起こしたのです。 初期のシリーズ作品のひとつ、タビサ先生のキャット・アカデミー。 頭に布をぐるぐる巻いている子が、飼い猫ピーターをモデルにした猫。 A エミリーの期待どおり、しかるべき名声を手に入れて喜んだのもつかの間、1887年、なんと結婚後たった3年でエミリーは他界してしまいます。 マリルボーン界隈にピーターを連れて引っ越したルイスは、ますます自閉的になりつつも、以後、大量の仕事をこなしていくようになります。 ルイスは多作な画家だったらしく、新聞や雑誌、児童書の挿絵のほか、グリーティングカードなども多数手がけ、数百点にものぼる作品を残しました。 猫の絵も当初のスタイルからだんだん広がりを見せ、猫たちの擬人化ぶりもますます大胆になり、二足歩行で洋服を着て、紅茶を飲んだり、タバコを吸ったり、本を読んだり、クリケットやテニス、ゴルフをしたりと、それはまさに「猫の顔をした人間」のようです。 エドワード朝時代の社会やファッションを反映させ、風刺や皮肉を込めた作品もあったため、ルイスのことを「猫版ホガース(ロココ時代の風刺画家ウィリアム・ホガース)」と呼んだ編集者もいました。 ルイスはなんとボクシングにものめり込んでいたらしく、鼻を折ったことさえあるそう。 この「負け猫」の絵も彼自身の体験を反映しているのかも。 他にも絵の題材になっているものは、彼が実際に一度でも体験したことがある可能性が高いといえそう。 B ルイスはまた世間的に「猫の専門家」として認知されており、RSPCA(英国動物虐待防止協会)をはじめ、猫にまつわるさまざまな文化的・慈善的活動にも積極的に参加していました。 1890年には「ナショナル・キャット・クラブ」の会長に就任し、「Beauty Lives by Kindness(美は優しさによって存在している)」とのモットーが入った同クラブのロゴ・デザインも手がけています。 しかしルイスの「猫理論」は奇抜というか少々独特で、科学的根拠に欠ける見解も多かったようです。 ルイスによると、猫が変化を嫌うのは脳が脆弱なせいなのだとか。 また「猫はみな自分の毛に帯びた電気の強度に左右されるコンパスを持っていて、その毛は地球のN極かS極のどちらかに引きつけられているので、北か南のいずれかの方向に向いている。 そして猫がグルーミングするのは体を洗う目的だけではなく『電気回路を完成させる』ためでもあり、グルーミングすることで熱を生み出し、心地よい感覚を得ている」という持論を展開しています。 猫と電磁波という視点は、なんだかSFじみていて面白いなあと思うんですけどね、実際どうなのかは不明です。 その他、ルイス自身の目や研究を通して確立した自説の中には「猫を愛する人はみな、最も優しい気性の持ち主である」というのもあり、にっこりさせられるんですが。 ルイスの猫の絵は国民的人気となり、毎年クリスマスにはギフトとしても贈られるアニュアル(年鑑)が出版され「ルイス・ウェインの機知に富んだ猫の絵を目にしないクリスマスは、ドライフルーツが入っていないクリスマス・プディングのようだ」とまで言われました。 しかしそれなのに、ルイスはいつもお金に困っていました。 それは常に家族を支えなくてはならなかったことと、彼がシャイな性格で交渉ごとが苦手だったため、「版権」というものを全く行使せず、多くの作品が再利用されたり、別の媒体で使われたりしたにもかかわらず、それらに対して収入を得ることが全くできなかったことにあるようです。 偽の署名が入った偽造品なども出回っていて、訴訟を起こしてもおかしくない状況だったのですが、お金がなくてそれもできなかったのだとか。 1907年にはニューヨークに渡り、ここでも多くの仕事のオファーを受けて高く評価されるのですが、ある発明家に投資して失敗したことで、またもや無一文になってしまいます。 そして1910年、妹から母親が病気だという知らせを受けて帰郷することにするのですが、残念ながらルイスが戻ってきた時、すでに母親は他界していました。 そしてその7年後、家計を切り盛りしていた一番上の妹が、インフルエンザをこじらせた末に肺炎で亡くなったことがルイスに決定的な打撃を与えます。 ルイスはその頃から徐々に妄想に苦しむようになり、他の妹たちが彼の所持金や私物を盗んでいるなどと言っては暴れたり、支離滅裂な言動を繰り返したりするようになります。 やがて妹たちの手には負えないようになり、医師から精神病と診断されたルイスは、63歳にして南ロンドンの精神病院に入院します(ちなみに一番下の妹がやはり29歳で精神病を発病して13年もの間、入院しており、1913 年に亡くなっています)。 統合失調症に苛まれながらも、入院後まもなくルイスは再び絵を描き始めます。 そして一年ほど経過した頃、保護観察者として病院を訪れた書籍販売業の男性が、物静かなこの患者が猫の絵を描いているのを見て「おや、おまえさん、ルイス・ウェインみたいな絵を描くねえ」と声をかけたところ「私がそのルイス・ウェインですよ」との答えが返ってきてびっくり仰天し、このアーティストの治療環境を向上すべきだとして立ち上がります。 結果的に時の首相ラムゼイ・マクドナルドさえもが「15〜20年ほど前、ルイス・ウェインの絵はどの家の壁にも飾ってあった。 彼ほど当時の少年たちに影響を与えたアーティストはいない」とコメントして手を差し伸べ、あのH・G・ウェルズも「みんなルイス・ウェインの猫を見て育った。 彼の絵がない保育園はほとんどなかった」とした上で「彼は自分の猫を作った。 スタイル、社会、そしてその世界を創り上げた。 ルイス・ウェインの猫のように振る舞わない英国の猫は、自らを恥じるべきである」と語るなど、さまざまな著名人からのアピールが功を奏し、ルイスはより行き届いた環境の病院に移送されます。 やや忘れられかけていたアーティストが再発見された時でした。 20世紀に入っても古風な19世紀の話し方や振る舞い、装いを保っていたルイスも、セレブとしてのこのVIPな厚遇を喜んでいたようです。 1930年、入院先の病院の移転に伴い、ルイスはハートフォードシャーの別の病院に移送されます。 70歳になっていた彼にとって、引っ越しと環境変化に対応するのは一苦労だったようですが、この病院には広々とした眺めのいい庭が備わっていて、鳥や野生動物の姿も見られる好環境だったため、まもなくして落ち着き、相変わらず絵を描いて過ごしていたようです。 この頃から彼の描く猫は、万華鏡のような幾何学模様、はたまたサイケデリックな抽象画のようになっていて、中にはほとんど猫の姿を残していないようなものもあります。 この変化を「統合失調症の悪化」と見る向きもあるようですが、彼の精神病的な兆候はもっと初期の頃の絵にも現れていたとする説や、テキスタイル・デザイナーだった母親の作品の影響からこのような模様を描いたとする説などもあり、真相は不明のようです。 私のような素人からすれば、初期と後期でだいぶそのスタイルを変えるアーティストは世の中にゴマンといるので、病気と関連づけるのはあまりにも短絡的のように思えますけどね。 なんにせよ、この時期の彼の作品はまた一味違った強烈さで、目を見張るものがあります。 tumblr. 150点もの作品が、10シリングから10ポンドで販売されたそうです。 そして1939年、ほぼ寝たきりで、言うことも完全に支離滅裂となっていたルイスは、79歳の誕生日を目の前にしてこの世を去りました。 彼の遺体は、ケンサル・グリーンのSt. 私自身は、ルイス・ウェインが描く猫の絵もさることながら、シャイでチャーミング、そしてちょっと変わったその人柄や、猫についての見解にも興味と好感をおぼえます。 彼の絵にそれがすべて表れているように思います。 デヴィッド・ホックニーかと思うようなタッチの絵もあったりして。 A 前述のH・G・ウェルズの言葉を念頭にうちの猫たちを見ると、確かにタムタムもラミーもルイス・ウェインの絵に出てきそうな感じがして誇らしく思え、なんだかニヤニヤしてしまいます。 ほんとに、どの猫も「ルイス・ウェインの子供たち」と言えそうですね。 余談ですが、初めてルイス・ウェインの猫の絵を見た時、あれ?どっかで見たことある絵だなあと思って記憶を辿ったところ、以前、神田の古本屋で見つけて買った一枚のポストカードを思い出しました。 どこかにしまってあるはずと思って探してみたらすぐに見つかったのですが、よく見ると、似ているけどルイス・ウェインの作品じゃない……。 裏には京都書院のクレジットが入っているけれど、誰の作品なのか、どこかから拝借したイラストなのか等々、詳細ははっきりせず。 でも、古い雑誌の挿絵のコピーのように見えるし、ユーモアのセンスや猫の目の形までそっくりなところを見ると、確実にパクリ、もとい、なんらかの影響を受けていることは間違いないと思われます。 しかし彼がお金に困っていて、贋作も多く出回っていたという事実を知った今では、正直ちょっと心苦しく感じられたりもします。

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ルイス・ウェインの猫

ルイス ウェイン

健康第一、毎日ジョギングを取り入れて気分一新なアルバトロデザイン代表 猪飼です。 仕事柄パソコンに座ってばかりであまりにも体を動かしていない日々が続き、数十メートルすら走ることもできない体になっていました。 コツコツとジョギングをして、今ではようやく1kmぐらい走れるようになった弱小ランナーです。 さて、体を動かさない事でなる病気や、腰痛などの故障も怖いですが、精神の病気もまたいつ襲ってくるものかわかりません。 本日はすこし衝撃的な内容です。 統合失調症と絵における変化という事ばかりで注目されがちなイギリス人イラストレーターのルイス・ウェインですが、彼の作品自体もとても素晴らしいものです。 本日は世界のイラストのあり方を少なからず変えた偉大なイラストレーター、ルイス・ウェイン悲劇の人生についてです。 Louis Wain ルイス・ウェイン (1860年~1939年) ルイス・ウェインはイギリス出身のとっても猫好きなイラストレーターで、擬人化されたかわいらしい猫のイラストが当時のロンドンで大ヒットし、イギリス中で人気を博した売れっ子イラストレーターでした。 ルイス・ウェインの描くネコのイラストはとてもかわいらしく、ルイス自身生涯にわたって猫を飼いつづけていました。 ルイス・ウェインは自分の飼い猫のピーターに対し、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」とすら語っています。 大好きな猫のイラストで大ヒットし、かわいらしくも緻密に描かれたルイスの猫のイラストは当時とても革新的で、老若男女問わずロンドンを中心にイギリス、ヨーロッパじゅうに愛されました。 ルイス・ウェインは児童書から経済紙まであらゆる媒体の挿絵を担当し、非常に多くの作品を残しました。 また、動物愛護(主に猫)のチャリティーにも積極的に参加し、当時まだ酷い扱いを受けていた猫や犬など、ペットへの軽蔑感払拭の為にも無償で作品を作り続けました。 ルイス・ウェインの描く猫には、彼の愛が詰まっていました。 しかし、華々しく見える売れっ子イラストレーターであったルイス・ウェインの人生は、実はとても酷なものでした。 それは正に、悲劇の連続の人生でした。 ルイス・ウェインの波乱万丈な人生 1860年 ルイス・ウェイン誕生 ルイス・ウェインはイギリスのロンドンに誕生しました。 ウェイン家にはルイス以外に5人の妹がいましたが、妹の1人は若い頃から精神病と戦っていました。 ルイス・ウェイン以外の5人の妹は全員生涯結婚することは無かったそうです。 1880年(ルイス20代) 父の死とイラストレーターとしてのデビュー 絵がうまかったルイス・ウェインは美術大学を卒業しますが、父親が死去してしまい、生活費を稼ぐために職探しをします。 ルイス・ウェインの緻密な絵は当時の雑誌に評判となり、動物や風景画を中心とした絵を描いてウェイン一家の生計を立てます。 1883年 (ルイス23歳) エイミーと結婚、妻の死 やがて、ルイス・ウェインは妹の家庭教師エミリーと結婚します。 実家を離れ、二人で生活しますがエイミーは癌に冒され、結婚3年後に病死してしまいます。 妻の残した猫、ピーターこそがルイス・ウェインと猫のコンビの誕生でした。 1886年 (ルイス26歳) ルイス・ウェイン全盛期 妻エイミーの死後もルイス・ウェインはピーターをモデルに猫を描き続けました。 そして、ただの猫を描き飽き、ただの猫では仕事の幅も感じたルイスは、猫を擬人化して描きました。 これが大ヒットとなり、ルイス・ウェインはイラストレーターとして一躍有名になります。 雑誌だけでなく児童書、新聞と幅を広げ、かわいらしい猫の絵はロンドンじゅうの人々の心を掴みました。 1907年 (ルイス37歳) 経済難、そして精神病との戦い 人がよく、職人気質だったルイス・ウェインはどんな仕事も安価で受けました。 5人の妹達の生活費を稼ぐため、常に働き詰めで、自分の作品作り以外は気にしていなかったのが問題でした。 ルイス・ウェインのイラスト人気はアメリカまで届き、人気は不動のものでしたが自らイラストの価格を引き上げなかったルイスは、ひたすら忙しくなるだけで常に経済難にありました。 取引相手にだまされる事も多く、ルイスには辛い日々が続きました。 そんな中、ルイスの精神も不安定になってきてしまいます。 穏やかでやさしかったルイスの性格は一転し、疑心暗鬼で妄想に苦しむようになります。 ルイス・ウェインと統合失調症 妹の1人と同じ精神病になってしまったルイス・ウェインの面倒は、他の妹達が看ました。 しかし日々暴力的になり、重度の精神病になってしまったルイスを妹達は病院へと入院させました。 お金の無い妹達がルイスを送った精神病院は劣悪な環境でしたが、やがて作家のHGウェルズを中心とした当時の友人たちに支えられ、キレイで庭があり、なによりも猫のいる病院へと移されました。 1939年、ルイス・ウェインはこの病院で人生の幕を閉じましたが、病院の猫に囲まれて後期は穏やかな性格を取り戻しつつあったといいます。 ルイス・ウェインは20年近くに及んだ闘病期にも、日課であるイラストを描く事は止めませんでした。 ルイスの描いたイラストの変化は、しばしば統合失調症の患者の気持ちを探るために引用されます。 ルイスが後期に描いた絵は、それは病気の為なのか、彼自身の精神の為なのか、または意図的なものなのかは未だに分かってはいません。 しかし、病気がルイスの心を変化させ、その影響が作品に現れたというのは事実です。 そもそも統合失調症という病気は、昔は精神分裂症と呼ばれ、現在でも解明されていない事の多い病気でもあります。 遺伝での発症も多い反面、後天的な理由での発病も同じぐらい多いとされています。 病状も様々で、精神のどの部分がどう変わるかは人によります。 同じ統合失調症で絵描きである高村智恵子は、闘病中も穏やかな作品を残しているし、逆に統合失調症で独自の世界観を作り上げた芸術家やミュージシャンも存在します。 ルイス・ウェインまとめ 母親、妹達の為に騙されてもひたすら働き続けたイラストレーター、ルイス・ウェインの末路は彼の後期の絵からみるととても衝撃的で、穏やかだった頃の彼の絵と闘病時の攻撃的な絵が実に対照的です。 観ていて胸が締め付けられるような気すらします。 しかし、ルイスの絵は病気時との「変化」だけで語られるべきものではありません。 彼の愛した妻との思い出、そしてその妻が愛した猫への思い、こうした悲しくもポジティブで繊細な思いがルイス・ウェインのイラストからは感じられます。 そして、それこそがルイスの絵をイギリス中の人が愛した魅力の根源でもあります。 ルイス・ウェインの絵は今見てもとてもかわいらしく、素敵です。 では、病気時の絵と比較されるのがよくないことなのでしょうか? それは、また違うと思います。 彼の絵はどの時期描いても、ルイス・ウェインの絵であり、画家の使命はどんな感情であれ、人を感動させることです。 どんな怖い絵でも、楽しい絵でも、人の心を動かすことこそが絵を描く「意味」だと思います。 ルイス・ウェインはだからこそ、闘病中も絵を描き続けたのだと思います。 表現したものは変わっても、彼は生涯画家でした。 人が変化するように作品も変化をするものです。 人の人生そのものが作品であり、彼の人生はとても幅の広い作品だったと言えます。 できれば彼の「変化」を気持ち悪いと思うのだけでなく、変化をきっかけに、ルイス・ウェインの前期、中期、後期「そのもの全て」が評価される事を願います。 Louis Wain 始めまして、最近アメブロを、始めました「エイケン」と申します。 ブログで家族の鬱病から栄養療法でいかに回復して行ったかをかいております。 先日英国の犬が200万匹もうつ病になっているとの生地がでておりましたので 其の、真偽を探る為探しておりましたところ、猪狩さんのッブログにであったわけです。 そこで素晴らしい記事なので、私のブログでも是非紹介させて頂きたく コメントしました。 どうか宜しくお願いします。 うつ病が、人間だけでなくペットにも、拡がりつつあるということは、糖質の 摂取の可能性からみて、容易に想像がつく事と、認識しております。 ルイス・ウエインの半生が、とても残念です。 あと100年早くホッファー博士や、ポーリング博士と、出会っていれば、20年の闘病生活はなく、もっと、もっと、より素晴らしい作品が残せたのでは、ないでしょうか。 これからも、より良い記事を書くために、訪問させて頂きます。

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猫で有名な画家「ルイス・ウェイン」作品と心の病

ルイス ウェイン

ウェインの作品の特徴である擬人化された猫の絵。 ルイスは給与の安い教師の職を辞め、フリーの画家となることにした。 1880年代を通してウェインは英国の家屋、敷地の詳細な絵や家畜の絵などを描いている。 ある時点においては犬の肖像画を描いて生活していこうとも考えていた。 23歳になったウェインは妹のであったエミリー・リチャードソンと結婚した。 彼女はウェインよりも10歳年長だったが、これは当時のイギリスではやや問題視されることである。 二人は北ロンドンので生活を始めたが、エミリーはに冒され結婚の3年後に死去してしまった。 病に苦しむエミリーはピーターというをかわいがっており、妻の余興にしようと考えたウェインはピーターに眼鏡を着けさせ読書をしているかのようなポーズをとらせたりしていた。 後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っている。 この頃のウェインの作品の多くはピーターをモデルとしている。 1886年に擬人化された 日本の創作によく見られる「人間の方が強い」ものではなく、二足歩行や人間のように服を着たり人間のように動くだけの [ ] 猫を描いた彼の作品がイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載された。 『猫達のクリスマス』と題されたこの作品には150もの猫が描かれており、お辞儀をする猫、ゲームをする猫、他の猫の前で演説をする猫の姿を描写している。 猫は皆4つ足で服も着ておらず、後の時代のウェインの作品を特徴づける人間らしさは見られない。 さらに時間が経過すると、ウェインの描く猫たちは後ろ足で立って歩き、大口を開けて笑い、豊かな表情を有して当時の流行の服装を着こなすようになった。 楽器を演奏する猫、を飲む猫、を楽しむ猫の他、、、鑑賞と人間のすることはみな行っている。 このような動物の擬人化はにおける流行であり、当時のやにしばしば用いられた。 ウェインやの作品はその代表例である。 ウェインは多作な画家として知られており、以後30年間で残した作品は数百にも上ると見られる。 彼は100あまりの児童書の挿絵を執筆し、新聞、専門誌、雑誌と様々な場所で作品が掲載された。 1901年から1915年には"ルイス・ウェイン年鑑"なる書籍が発売されている。 作品においては時代の流行に追いすがろうとする人間社会に対する風刺や皮肉もちりばめられている。 ウェインは「レストランなどにスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間臭さを残したまま描く。 こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ」と述べている。 における作品の一つ。 入院中に描かれた作品の多くはこれとは異なり過度に抽象化されている。 ウェインは動物に関係したチャリティー活動へも参加している。 口のきけない我が友連盟評議会 Governing Council of Our Dumb Friends League 、猫保護協会 Society for the Protection of Cats 、反生体解剖協会 Anti-Vivisection Society などである。 全国猫クラブ National Cat Club においては議長として活躍していた。 猫への軽蔑観を取り除く手助けができると感じていた。 作品の人気の高さにも関わらず、ウェインは常に金銭に困っていた。 母と妹たちの生活費を稼ぎ出さなくてはならず熱心に働いたが、経済的な感覚に乏しいことが仇となった。 気性は穏やかでだまされやすく、作品を安く買いたたかれ、権利関係は取引相手に任せっきりで割の悪い契約を押し付けられることもあった。 1907年のへの旅行においては作品は高い評価を受けたものの、後先を見ない買物の為に懐具合は旅行前よりさらに悪化してしまった。 心の病 [ ] この時期を境としてウェインの人気にもかげりが見え始めた。 それと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していった。 周囲の人々から『チャーミングだがちょっと変わった人』と評価されることが多かったウェインだが、次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていった。 話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていた。 そしてウェインの行動や言動は決定的に変わってしまい、妹の一人と同じように精神病を発病してしまう。 ウェインは妄想に苦しみ、優しい兄であった彼が疑い深く敵意に満ちた性格へと変貌してしまった。 ウェインは「映画のスクリーンのちらつきが脳から電気を奪ってしまう」などと主張するようになった。 夜には通りを彷徨い歩き、家具の配置を何度も変更し、部屋にこもっては支離滅裂な文章を書き連ねた。 1924年になり彼の言動そして暴力に耐えきれなくなった姉妹によって、ウェインはスプリングフィールド精神病院の貧困者用病棟に収容された。 1年後ウェインが病院に隔離されていることが知られるようになると、などの嘆願と当時の首相の介入により、彼の治療環境は改善されるようになった。 ウェインはへと移され、続いて1930年には北ロンドンのナプスバリー病院へと転院された。 この病院には患者たちのために心地よい庭が用意されており、そこには数匹の猫が飼育されていた。 ウェインは死去するまでの9年間をこの施設で過ごし、本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していった。 気が向けば以前のように猫の絵に取りかかったが、その作品は原色を多用した色使い、花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されている。 精神病理学の教科書においては、ウェインの一連の絵画作品の表現の変遷が、彼の精神症状の悪化を示している事例として広く取り上げられている。 だがウェインは作品に制作日を入れなかったので、各作品がこれらの教科書で紹介されるような順序で制作されたかどうかは、実際にはわかっていない。 ウェインの伝記 "Louis Wain: The Man Who Drew Cats" の著者ロドニー・デイルは、これらの絵画がウェインの精神状態の悪化を示しているという説について「ウェインはさまざまな描画のパターン、さまざまな猫の描写を試みており、亡くなる寸前まで、慣習的なスタイルでの猫の絵画も制作し続けていた。 それらは猫よりも抽象的パターンに近づいた(俗説でいうところの)『後期の』作品よりも、10年以上も後の作品である」と批判している。 一方2012年、ケヴィン・ヴァン・エーケレン博士は、ウェインの初期の物語作品、たとえばLouis Wain Kitten Book 1903 などには、すでに精神病的な徴候が現れているという説を提唱している。 この分析は、「正常」と「狂気」の間の連続性に注目する、ルネ・ジラールのミメーシス的精神病論に基づいている。 2012年12月、デヴィッド・オ・フリン博士は、ベツレム王立病院文書博物館における「Kaleidoscopic Cats」展のギャラリー講演で、この順序は「作品を制作したルイス・ウェインと、これを一連の順序に並べた精神分析医のウォルター・マクレー 1902—1964 」という2人の人物によって作られたものだ、という見解を示している -。 オ・フリンによれば、マクリーは1930年代に、芸術活動とメスカリンによって引き起こされる精神症状との関連性について実験を行っており、ウェインの諸作品の時系列的変遷は、先の実験から導いた「統合失調症の患者からは創造的才能が失われる」という主張の証拠だと考えていたという。 だがいわゆるは、こうした説が誤りであることを示している。 オ・フリンは、ウェインの後期作品には、作品水準の劣化どころか、より高度な実験性と多彩な色使いが見出せるという。 彼は1960年代以後、ウェインの諸作品には制作日付がなく、先の制作順序も特定の意図に沿って作られたものだったことが判明しつつあるにも関わらず、「『精神病的悪化』という架空のできごとについての表象は驚くほど根強」く、この一連の作品は「精神病院のアートにおけるモナリザ」になったと言う。 名声 [ ] H・G・ウェルズはウェインについて、「彼は自身の猫をつくりあげた。 猫のスタイル、社会、世界そのものを創造した。 ルイス・ウェインが描く猫とは違うイギリスの猫は、自らを恥じてしかるべきである」と記している。 他の作品 [ ]•

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