黒澤 元治。 黒澤元治の殺人事故を起こした後の現在は?息子や最後のメッセージは?

選手二名が死亡した
大事故はなぜ起きたのか? 『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』 (中部博 著)

黒澤 元治

元々勾配の設計が良くない上、「馬の背」と呼ばれた。 オープン当初から重大事故が多発し、後に使用中止に。 続く午後の2ヒートには総勢17台が出走。 風戸は5番手、鈴木は9番手の順位だった。 前年の最終戦にも死亡事故があり、悲劇の一因ともいえる「密集状態」を 緩和するためローリングスタートとなった。 先頭は国光のマーチが果敢に出たが、既に2番手は接戦。 先の30度バンクに入るためにコース左側のラインを占守しようと黒沢元治と 北野元のマーチが競り合った。 その際、黒沢車は二度三度と左にいる北野車に接触、北野車は左のタイヤを コース外にはみ出してしまう。 制動の生じた北野車は右側から数台に抜かれながら、なんとかコースに 戻ろうと試行錯誤。 しかし、ちょうど戻った先は、前に風戸車、後ろに鈴木車。 なんとその間に割るように入ってしまった。 風戸は左の後部、鈴木は左の前部にぶつけられ、鈴木は時計回りに、 風戸はその逆で、左の外側ガードレールへ向けてスピンしていった。 北野車は、コースを横切ったのち漆原徳光のローラを巻き添えにして、 その後部に乗り上げる形となり停止。 二人が脱出した直後に車体は炎上。 一方…風戸と鈴木の車はガードレールを突き破り、草地で何度か横転した のちに火を吹いた。 もはやレースと呼べる光景ではなく、リタイヤ した北野がコース上に仁王立ちになり、一周目を終えて疾走してくる各車に 身を呈して「止まれ、止まれこの野郎!」と叫ぶというすさまじさ。 風戸は燃え盛る車から自力で這い出し、ふらふらとよろけながらヘルメット を外したが、そこで力尽きるように倒れた。 鈴木はマシンの中で、脱出も出来ずにこと切れました。 風戸25歳、鈴木37歳。 (合掌).

次の

鈴木恵一と風戸裕が亡くなった74年(?)のグラチャン。この事故の経緯を詳...

黒澤 元治

1974年6月の富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦で、マシン4台が炎上し、ふたりのレーシングドライバーが死亡する事故が発生した。 そのとき僕は20歳だった。 ひとりのモータースポーツファンであった。 レース事故の詳細を専門誌の記事で読んだとき、なぜ、このような事故が起きたのだろうか、と疑問に思った。 というのは、ほぼ同時にふたりのレーシングドライバーが事故死したからである。 亡くなったのはベテランの鈴木誠一と、期待の若手であった風戸裕だった。 このレースは、日本のトップクラスのレーシングドライバーが出場する興行イベントレースで、出場していたのは高橋国光、北野元、生沢徹、黒沢元治など、だれもが知るスター選手が多かった。 そのようなレースに出場するレーシングドライバーの鍛えられた運転技量や危険予知能力は、驚くほど高いレベルにあるから、その人たちふたりが同時に事故死するほどの、とてつもない事故だったのだろうと思った。 頭のかたすみに、この事故の記憶がこびりついた。 モータースポーツは死亡事故の多いスポーツだ。 山や海のスポーツは、それ以上に危険性が高いという人がいるが、そのような命がけのスポーツのひとつである。 生きていることを謳歌するために人間は知らず知らずのうちに生死の境をさまよってしまうものだ。 レースはそういう危険性をはらむスポーツだが、ひとつのレース事故でふたりのレーシングドライバーが同時に亡くなったというケースが他にないことに、あるとき気がついた。 その規模において、これは世界のレース史のなかで最大の事故だったのである。 しかもこの事故は、レーシングマシンの突発的な故障が原因ではなかった。 スタート直後に2番手争いをした2台のレーシングマシンが接触事故をおこしたことから、多重クラッシュが発生した。 7台のマシンが走行不能になり、そのうち4台が炎上した。 炎上した4台のマシンから、ふたりのレーシングドライバーが脱出して命拾いをし、ふたりが帰らぬ人となった。 2番手争いをしたのは、もちろんトップクラスのレーシングドライバーたちであった。 スタート直後に2番手争いで激しい接触事故がおきれば、後続のマシンがいるのだから、多重クラッシュに発展してしまう可能性があることを知らないはずがない。 しかしそれでも事故はおきた。 「なぜ」だろうと、僕は思った。 あまりにも不可解な事故であったからだ。 「だれ」という犯人さがしならば、このレース事故を、業務上過失致死傷罪の容疑で刑事事件として捜査した警察と検察が、ひとつの結論を出している。 捜査陣が指摘した過失を認めたひとりのレーシングドライバーが、書類送検され、新聞記事になって社会的制裁をうけたあげくに、不起訴処分になった。 刑法的には無罪である。 スポーツの現場の死亡事故で選手が書類送検されることはありうるのだろうが、これは異例のことであった。 問題の本質は、「だれ」が事故をおこしたのかではなく、「なぜ」事故がおきたのかである。 ひとりの人間の行為とその結果が、その人間が属するレース界や社会と無関係に存在するとは考えられない。 ひとりの人間を追い込むものは、人間と人間の集団しかない。 僕はレース好きが高じて、いまもアマチュアのレースに出場しているほどだが、このレース事故の原因について考えているうちに、そこに人間と人間の集団というものが見えてきた。 若いときの自分の疑問に応えることができるかもしれないと思った。 モータースポーツを愛好してきたから、多少なりともこのスポーツに詳しい。 月並みだろうが、人間や社会について考えてもきた。 このレース事故で生き残ったレーシングドライバーや、事故現場となった富士スピードウェイにいた人たちを、僕はたずね歩き、話をきいて質問を重ねた。 いくつかの貴重な資料を提供してくださった古くからのレースファンたちがいたので、目撃していない事故のシーンを、いまになって遠くから見たような気持ちになった。 とりわけ生き残ったレーシングドライバーたちの貴重な証言は、驚きと刺激にあふれ、ほんの数秒間の出来事が、長編ドキュメンタリー映像のように思えた。 真情が吐露されれば、その言葉の前で思わず立ちすくんでしまったこともある。 亡くなられたふたりのレーシングドライバーの無念を感じ、目を閉じてご冥福を祈るときもあった。 そのような僕の取材経験を丹念に綴った。 書き上げた360ページの本は、『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』というブックタイトルがついた。

次の

黒澤元治の殺人事故を起こした後の現在は?息子や最後のメッセージは?

黒澤 元治

この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2010年4月) 自動車競技者として [ ] 系チームで2輪ライダーとして活動。 1962年にで初開催された、第1回全日本選手権ロードレースの50ccクラスで優勝するなどの実績がある。 1965年、と契約することによって4輪競技に転身、に所属した。 その際、2年間ほどは、大森ワークスのリーダーだったのチームへ所属し、2輪などの二輪競技にも並行して出場した。 1968年、日産の上位チームであるの所属へと昇格した。 にで出場し優勝、ととともに「追浜ワークス三羽ガラス」などと称され、日本を代表するレーシングドライバーとなった。 その後は、日産ワークスドライバーとしてなどで活躍した。 1973年、日産追浜ワークスから離脱、プライベートチームであるに所属した。 でチャンピオンになった他、で連続ポールポジション・日本グランプリで優勝するなどの活躍をした。 1974年の事故 [ ] 1974年、自らのチームである「クロサワ・エンタープライズ」を設立、チームオーナー兼ドライバーとしてレースに出場した。 同年6月2日、富士グランチャンピオンレースで大事故(多重クラッシュによって、・のドライバー2人が死亡)が発生。 黒澤はその責任を問われて(黒澤が他のマシンに複数回にわたり故意に接触したことが事故の原因とされた)レース関係者から糾弾されるとともに、警察にされたが後に不起訴となった。 なおこの事故で書類送検されたのは黒澤ひとりだけである。 (JAF)は同年10月に開かれたスポーツ委員会において5年間の資格停止処分を発表し、中央審議委員会において出場停止期間が1年3ヶ月に短縮されるものの、これを受けた黒澤は競技ライセンスを返上し、一時は現役を去った。 出場停止期間明けの1975年にレースに復帰したが、かつてほどの強さを示すことはできず、レースの第一線からは退き、以後はレース活動と平行して従事したブリヂストンの市販スポーツタイヤの開発テスターへと活動の中心を移した。 後に、友人である作家の薦めで活動も始める。 概ね評価は辛口であるが 、ホンダに対しては舌鋒が甘いことが指摘されてきた。 しかし最近のの企画 では、ホンダの新型を「車が重い」「サスペンションの作り方が間違ってる」「荷重変動もロールも大きすぎる」「シャーシデザイナーが良いのがいない」と滅多切りにしていた。 1974年、富士グランチャンピオンレースでの事故についての証言 [ ]• 黒澤と北野元の直後を走っていたは、「黒澤が反動を付けるようにして、明確な意思を持って北野に何度もぶつかって、北野をはじき飛ばそうとした。 この証言については、事故の直後も現在も、同じことを何度も話している。 私の記憶を映像にする方法があれば、その映像を見てもらいたい。 あれはないよ、ガンさん」と、事故の原因が黒澤にあるということを語っている。 は、「ローリングの最中にポールポジションの選手(黒澤)が蛇行したりブレーキを踏んだりして、レースになっていないと落胆した。 あまりに危険。 やってはいけない。 仲間を尊敬し敬愛するのがスポーツマン。 それがないならばスポーツではない」と語っている。 テレビ放送の解説を行っていたは、黒澤がローリング中に蛇行や急減速を行ったこと(ウィービング)に対し「ここまでいったらイカン、やりすぎだと思う」と解説している。 また事故の背景を説明する雑誌記事の中で「黒澤は2輪レースの時代から仲間に『ぶつけ屋ガンちゃん』と呼ばれていた」と語り、黒澤が故意の接触や幅寄せの常習者だったことを明かしている。 ビデオマガジン『』では、土屋圭市や息子の黒沢琢弥と共にテストドライバーとして参加しているが、こちらでも強引なドライビングで共演者からの苦言が絶えない。 評価 [ ]• は「私の計測器。 普通の計測器じゃ測れないようなをしてくれる計測器だった。 それがあったからR382が出来た。 仕事のうえでは大変なありがたい計測器。 お金で買えない」と評した。 は「日産三羽ガラスの中で、ドライビングだけじゃなくてマシンの開発、セッティング能力、全てにおいて黒澤さんがナンバーワン」と語る。 でタイヤの設計、開発をしていたは「(黒澤のように)タイヤの中身まで透いて見えるようなドライバーは今まで出会ったことなかった」と語っている。 高橋国光は著書の中で「日本グランプリのレース中に、富士スピードウェイの30度バンクで黒澤に故意に接触された」と語っている。 主なレース戦績 [ ]• 富士グランチャンピオンレース 2勝 6連続ポールポジション• 2 Ret Ret Ret Ret NC 0 Div. 2 19 Ret NC 0 愛車 [ ] 1990年の発表以来からを乗り継ぎ、NSXタイプRも所有している。 また、、、、も購入している。 比較的操縦が難しいといわれるのオーナー向けドライビング講習会、NSXオーナーズ・ミーティングの特別講師を1991年の開設以来担当し続けている。 家族 [ ] 実子である、、は何れもレーシングドライバーである。 しかしながら黒澤自身、息子たちに自動車競技を勧めたことは特になかったとのこと。 著作 [ ]• 『無敵の最新FF車運転テクニック』(1983年、講談社)• 『間違いだらけのAT車テクニック』(1986年、講談社)• 『疾風! ドラテク教本』(1987年、講談社)• 『間違いだらけのFF車テクニック』(1988年、講談社)• 『新・間違いだらけのFF車テクニック』(1990年、講談社)• 『黒沢元治激辛クルマ選び』(1990年、講談社)• 『おっと危ない! とっさの時の運転テクニック』(1991年、講談社)• 『新 ドライビング・メカニズム』(2013年、主婦と生活社) 映像作品 [ ]• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 3 黒沢元治のドラテク特訓道場』(1989年、講談社)• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 17 黒沢元治のドラテク特訓道場 PART2』(1991年、講談社)• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 19 黒沢元治のAT車運転テクニック』(1991年、講談社)• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 21 黒沢元治のスーパードライビング』(1991年、講談社)• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 35 鉄人黒沢元治のスポーツドライビング道場! 』(1996年、講談社)• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 52 黒沢元治のアクティブ・ドライビング その1 一般路』(2000年、講談社)• 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol. 53 黒沢元治のアクティブ・ドライビング その2 サーキット』(2000年、講談社) 出典 [ ]• ベストモータリング レーシングヒストリー Vol. 17 黒沢元治のドラテク特訓道場PART2 注釈 [ ] []• ・の 22B-STIバージョンに試乗した際に、「ユーザーを馬鹿にした単なるオタク車。 キチンと車を作って欲しい」と述べ、マツダ(FD3S)のタイプRZ 初期)に試乗した際は、「タイヤがプアになって、ボディやサスペンションの粗が目立たなくなっただけ。 そんなにタイヤを軽量化したいならタイヤを細くすれば良い。 タイヤの重要性を理解していない」と述べている。 また「ターボや4輪駆動、は好まない」と、同ビデオで何度も発言している。 外部リンク [ ].

次の